
朝の雨もあがり、爽やかな秋晴れの1日となりました。
さて、岡山県重要無形文化財指定の備前焼作家の故藤原建氏。
今年は、建氏が昇天されて30年になります。
大正13年7月12日、現岡山県備前市穂浪に生まれた藤原建氏は、青年期、叔父藤原啓氏、また金重陶陽氏という後に備前焼の人間国宝に認定される先輩、また陶陽氏の令弟金重素山氏の指導を受け、さらに北大路魯山人氏のもとでも修業に励み、昭和31年に独立、築窯しました。
土を活かし、窯を活かし、火を活かす備前焼の正道を全うされたその作品は、味わい深く、力強く、品格高く、この世界の将来を担う作家となるに違いないと嘱望されていた建氏でしたが、昭和52年11月25日、53歳の若さで逝去されました。

ところでこの藤原建氏が、黒住教本部・大教殿の大屋根にある“千木・鰹木・棟瓦”を命懸けで作成し、献納して下さった事実をご存知でしょうか。
黒住教宝物館(まることセンター)では、ご命日の30年祭を機に、前後半年間、回顧展ともいうべき展覧会を開催しています。
その名も“藤原建 逝きて三十年展”。

この展覧会を記念して、2冊の冊子が発刊されましたが、そのうち第六代黒住宗晴教主様が執筆された『私の建さん』の中から一文紹介させていただきます。
“大教殿大屋根を備前焼で!!”
「宗晴さん、わしは神道山にできる大教殿の屋根を備前焼でつくりたいんじゃ。ばあさん(藤原世為さん)やおやじ(藤原静支さん)の信仰には及ばんけど、少しでも近づきたいんじゃ。管長様(五代教主)にも喜んでもらえると思う。そりゃ、命懸けのことになる。でもなあ、大教殿の屋根をやって死ぬんなら本望じゃ。わしはやりますぞ」。
黒住教が、宗忠教祖誕生の地、立教の地大元から、折から押し寄せてくる都市化の波を避け教祖立教以来厳修されてきた旭日を拝む日拝の最適の地として、現在の神道山に教団本部を移転しようとしていた昭和44年、建さんからの発言がありました。
話し合いを重ねた揚げ句、“雨垂れ坪”500坪もの大屋根すべてを備前焼でというのは到底無理な話、ならばせめて千木鰹木棟瓦をということになりました。
日頃、窯焚きに際しても火入れ式を必ずつとめ、しかも干潮から満潮に至る時間内に火を入れるなど、いわば「窯の神、火の神」に対する謙虚な心を持ち続けていた建さんは、信仰の人らしくその作行きもいわば自然体を大切にしていました。
しかし、大教殿大屋根に挑んだ建さんは人に見せたことのない緻密な計算、研究に没頭しました。
海抜は120メートルそこそことはいえ、大教殿の建つ所は山の中、風雪に耐え、温度差にも影響を受けない柔軟な強さを持った備前焼でもって千木鰹木棟瓦をつくらねばなりません。
建さんは備前焼でできた閑谷学校の屋根瓦、児島の由加神社の鳥居などを調査、分析し土づくりに精を出しました。
さらに全長23メートルの大窯を築き、試験焼きを重ねました。
しかもそれはすべて成功し現在の岡山国際ホテルロビーの大壁面となっているのですから、改めてさすが建さん!!の思いが募ります。
80トンに及ぶ備前の土を使い複雑な形の千木、棟瓦の成形に臨み、最後に鰹木の両端を押さえる直径90センチの大作に挑みました。
実際に使うときが90センチということは成形のときは110センチで、ロクロをひく建さん自身がその迫力で振り飛ばされそうになったと語っていました。
必要な合計18個のこの大作は、成形に際して約3倍の数をつくり、窯入れまでにもひび割れし、窯から完成品として出てきたのはぎりぎりの20個でした。
この大窯での窯焚きだけでも5回、まる2ヶ月、まさにすべてを捧げつくした1年半でした。
昭和49年10月27日の大教殿竣工、大元からのご遷座を前に、4月から板状の玄昌石を3枚葺きにする大屋根づくりに併せて、建さんの丹精込めた千木鰹木棟瓦の取り付けが始まりました。
毎日のように備前市からかけつけて来て、大屋根に上がって取り付け作業を指導する建さんでした。
5月12日、五代教主一年祭の前日に“いらか祭”という名のもとに大屋根の完成、工事の無事を祈る神事が執り行われました。
この日、神事が終わっても斎場となった現在の日拝どころにひれ伏して、目前の千木鰹木を拝み続ける建さんの姿は、私たちのまぶたの裏に焼き付いています。

《本日の御教え》
いや高き雲居に光る君が世の 天が下をも照らし給えよ
難しく思う心ぞ地獄なり やすく嬉しき心極楽(教祖神詠)
最近のコメント