
時の流れは、振り返ると早く感じるものです。
もう8月。
しかも、暦の上では秋。
悔いの残らない平成19年にしたいものです。
さて昨日は“ついたち御日拝”でした。
お日の出時刻は午前5時16分だったので、先月よりは遅くなりましたが、お道づれ(信者)の皆様!起きれましたか?
御日拝は、生命の充電の時です!
特についたち御日拝は、先月の御礼とこの月への感謝を申し上げる大切な時です!
来月こそは参拝しましょう。
昨朝の神道山は、東の空に厚い雲がかかり、両の眼で直接お目にかかることは難しいと思っていましたが、予想に反して雲の奥から神々しい御光でご挨拶して下さいました。
本当に有り難い一時でした。
この感動を、ぜひ皆様と共有したいものです。

さて、黒住教の機関誌『日新(にっしん)』の巻頭に、第六代黒住宗晴教主様は様々な御教えをお書き下さっています。
最新である8月号の、『“他”のために生きる』と題して掲載されている記事を添付させていただきました。
お互いお心様を養いましょう。
“他”のために生きる
教主 黒住宗晴
今日、老人問題は多くの家庭や地域で大きな問題となっていますが、特に認知症の人々といえば施設で介護の人にお世話になることが多く、いわんや人のために何かをするということはないのではないでしょうか。
先日、たまたまつけたテレビで、施設に入所している認知症の人たちが、積極的に自分のことは自分でする、さらには人のために尽くす喜びを体感できるように努めている姿が放映されていました。
ご覧になった方も多かろうと思いますが、この施設は広島県の庄原市にあるもので、介護の人に連れられたお年寄りたちが定期的に街に散歩に出かけ、神社にお参りし、行き交う人々に挨拶して言葉を交わしていて、そこからはお年寄り方がその時々を楽しんでいる様子が伺われました。
さらには、ほうきをもって掃除する人、食堂で料理を作る人など、人からしてもらう立場に止まっていなくて、少しでも他のため人のために役立とうとする日常を大切にしているさまが伝わってきて、胸うたれました。
この施設では、入所者の皆さんの生活をこういう方向に変えてからというもの、皆さんが前と違って生き生きとしてきて体調もよく元気になってきた、口数の少ない人も口を開き出し、人との会話を楽しむようになってきた等、よい結果が報告されていました。
かつて知的障害のある人々を施設から連れて出て、一般の人々と変わりない生活の場を与えるノーマリゼーションが叫ばれ、今はこの世界では当たり前のこととなっているようですが、いくら年をとり、認知症といういわば障害のある身になっていても、人間としての本質は変わらないというまことに尊いことも教えてくれたテレビ番組でした。
それは、昨年九十六歳の長寿を重ねて昇天した私の母の場合も同じでした。
年相応の老化現象は出ていましたが、最晩年までわが家“大元家”の主婦であるという誇り──実際の仕事は私の家内に任せて久しくなっていましたが──これを持ち続けていたことが、それなりに元気でいた元であったと思います。
日々の御神前のおつとめにしましても、個人としてもさることながら、“大元家”という家の意識が、一層おかげをいただく受け皿となっていたように思われます。
玄関などに花を活けるのも大切なつとめ、そして日々、長男の私を送り迎えることはわがつとめといった感がありました。
人間、何が悲しい淋しいといって、することがない、また人に無視されるほど辛いことはないのではないでしょうか。反対に、何でもいい、他のために自分が役立っているということは、その人に大きな生きる力を引き出す元だと思います。
愛の反対は憎しみではなくて無関心だといわれますが、それは同時に、関心を持つことは愛の始まりだということです。
無感動、無気力、無関心の“三無”が指摘されて久しい今の世の中、密度の濃い人間関係が少なくなってはいないでしょうか。
かつて岡山県内のある教会所に、足に重い障害があって一歩歩くにも大変な努力がいるお道教師がいました。
彼から聞いた話が今に忘れられないのですが、こういう身の彼は毎朝夕御神前を背に玄関口に座って、教会所の前を通る通勤通学の人々に手を合わせてその無事を祈るのを日課としていました。
日に二、三百人の人々が忙しく通り過ぎるのですが、何人かが会釈したり中には立ち止まって礼をして行く人もいたようですが、大多数は無関心だったようです。
その人たちの一人でもこちらを向いてくれないかと思ったり、石でも投げてくれた方がましという思いにも駆られたときもあったといいます。
しかし、そういう思いに駆られるのも“未だ己れの至らざる証”と省みながら、朝夕のこのつとめを絶好の修行の場としていたと申していました。
対話は互いに与え合うことだといわれますが、この人はそれを地て行った人で、身体はゆがんでいましたが、心は誰よりもまろやかな穏やかな心で一生を全うされたと、今も思い出すと胸が熱くなります。
教祖神は『人を助けずば神にはなれぬものなり』と御教えになり、『誠はまること』と説かれました。
誠を尽くすとき、そのまごころ、誠意、慈愛の心は大きく転回して自らの心の養いになります。
ひと口でいうならば、身を養うためには栄養をとり、酸素をとり、睡眠までとるというように、取り入れ、戴くばかりです。
しかし、心を養う、心の中の心たるご分心への栄養は、自分を超えた神仏、人々はもとより、あらゆることにこちらから誠を尽くし、捧げ、与え、仕え奉っていくところに、ブーメランのように帰ってくるものです。
与えられて喜ぶ喜びよりも、与えるところにいただく喜びの方が深く大きいものです。
すなわち、喜んでもらう喜びが最高ということです。
人は人に尽くして人となり、人に役立っての人生です。
特に、『人となるの道すなわち神となるの道』たる本教のお道づれは、常に他をおもんぱかり、思いやり、他に誠を尽くすことを喜びとする人でありましょう。
まさに、私たちはお日の出を拝んで『人のために祈ろう』とつとめることです。
教団を一人の人間としますと、私たちは今、お伊勢様という“私”を超えた存在に、日々の祈りの中でまごころをお捧げする『伊勢神宮式年遷宮奉賛』につとめています。
去る六月三日、一日神領民としていわゆる“大トリ”のお木曳行事に参拝奉仕できた感激は、お互いに口に言い表せぬほど深く大きいものでした。
それは、教祖神以来の二百年に近いお伊勢様との有形無形のご神縁があるとは申せ、黒住教団という“我”を離れたご存在のお伊勢様に、道の誠、まごころを尽くしたゆえにいただけたまさにご神徳でありました。
こういう姿で歳月を有り難く重ね、平成二十五年の第六十二回伊勢神宮式年遷宮に仕え奉り、もって翌二十六年の本教立教二百年を大きな感動の中で迎えたいと願っています。
《本日の御教え》
天地の誠の道をおうけなく ふみわけそむる今日にもありや(教祖神詠)
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